楽園王25周年


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楽園王は一世紀続けることを目標の一つにしている劇団です。100年。現在は演出家で劇作家でもある長堀博士の作品を上演する目的で活動をしていて、2016年の時点で25周年を迎えます。25年は25年でけっこう大変で、頑張ったと思います、が、やっと1/4世紀です。まだまだ先は長い。楽園王、ゆくゆくは新しい後継者を中心に世代交代をして、次のフェーズへと入りたいと考えています。その為、優れた演劇人を輩出する活動にも力を入れていて、ワークショップなど公演以外の活動にも力を注いでいます。

ただ、新しい段階に、なんて、まだまだそれは先の話でしょうか、今はまだ「人の心の闇=病み」を描き、その迷路感から「エッシャーの絵の中に紛れ込んだよう」と言われる長堀作品を中心に公演をします。音楽的な美しい言葉使いの「句読点ずらし」など、特徴的な演出による独特の舞台作品を発表して参ります。25周年の今年、あらためまして、どうかよろしくお願いいたします。いつもより多めに傘を回します。

「百年ここにいるよ」 …いつだってその隙間を覗いてみれば演劇のセカイにはいつも私たちがいます。もし、少しでも琴線に触れるところがありましたら、ぜひ劇場にてお会いしましょう。いつも応援して下さる方へ、5年か10年前に一度だけ観たことがあるって方へも、25年前に生まれた方、その時にはまだ生まれていなかったって方へも、25年前に田端にあった旧々々ディプラッツに居合わせた方もいるかもしれませんね、皆さま、どうかよろしくお願いいたします。支えてくれた仲間へ、心からの感謝の気持ちを込めまして。振り回してごめんね。

楽園王は2016年、25周年を迎えました。「祝祭」の意味と、さらに続く未来への「布石」の意味も込めて、古典戯曲から長堀博士が描く迷路のような物語まで、豪華ラインナップにてお贈りいたします。

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長堀博士 演出家 劇作家 楽園王代表

1966年、東京生まれ。現在ではスカイツリーが建っている近所の吾妻橋にある三松旅館にて幼少より育つ。旅館という特殊な環境で育ったが故の経験を背景に、劇作、演出、ワークショップなどを行う。1991年、劇作家として他のカンパニーへ書下ろしをしていた長堀博士が自らの演出で自作を公演する目的で楽園王を旗揚げ。2000年、「利賀演出家コンクール」(JPAF主催)に出場したことを契機として、オリジナル脚本にこだわらずに、古典戯曲や文学作品なども上演のレパートリーに加えるようになる。同コンクールには6回連続で出場し、3度の選外(つまり失格!)を経て、イヨネスコ作「授業」の演出にて「優秀演出家賞」を受賞。その後2年間、コンクールの審査員も務めた。また、その評価から、「Shizuoka春の芸術祭」(SPAC主催)に二度の招聘を受け、寺山修司「青ひげ」、エウリピデス「メディア」を上演。近年では、2015年に青学WSD18期を履修し、ワークショップデザイナーへ。また「利賀演劇人コンクール2015」にてチェーホフ「イワーノフ」を上演し「俳優を含めた集団の継続性」に対し奨励賞を受賞した。

出演者の紹介:

楽園王25周年に出演した方、出演する方を紹介します。随時追加していく予定です。どうぞよろしくお願いいたします。

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大畑麻衣子
Ohata Maiko
「楽屋」「図書幻想」「旅行記とその船」

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岩澤繭
Iwasawa Mayu
「楽屋」「授業」「物語」「図書幻想」

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植村せい
Uemura Sei
「増殖」「物語」「図書幻想」

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小林奈保子
Kobayashi Nahoko
「楽屋」「物語」

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杉村誠子
Sugimura Seiko
「芝居」「授業」

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川島むー(お茶祭り企画)
Kawasima Muu
「楽屋」

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政井卓実
Masai Takumi
「芝居」「旅行記とその船」

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吉田奈央
Yoshida Nao
「芝居」「図書幻想」

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久堂秀明
Kudo Hideaki
「授業」

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村田望
Murata Nozomi
「授業」

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あべあゆみ
Abe Ayumi
「物語」

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本堂史子(カリバネボタン)
Hondo Fumiko
「物語」

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佐藤拓実
Sato Takumi
「物語」

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関大輔(EgofiLter)
Seki Daisuke
「物語」

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大迫健司
Osako Kenji
「物語」「図書幻想」

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間山絵美
Mayama Emi
「図書幻想」

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山上綾音
Yamakami Ayane
「物語」「図書幻想」

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小島美沙子
Kojima Misako
「物語」

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横山真友子
Yokoyama Mayuko
「物語」

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石川綾子
Ishikawa Ayako
「物語」

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秋葉舞滝子(SPIRAL MOON)
Akiba Masaho
「旅行記とその船」

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牛水里美(黒色綺譚カナリア派)
Ushimizu Satomi
「旅行記とその船」

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早川紗代(ノアノオモチャバコ)
Hyakawa Sayo
「旅行記とその船」

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南葉桃江
Nanba Momoe
「旅行記とその船」

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丸本陽子
Marumoto Yoko
「図書幻想」

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長田大史
Osada Hiroshi
「旅行記とその船」

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小澤凌
Ozawa Ryo
「旅行記とその船」

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かやべせいこ
Kayabe Seiko
「旅行記とその船」

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藤田早織
Fujita Sori
「旅行記とその船」

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片倉裕介
Katakura Yusuke
「旅行記とその船」

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宮居草也
Miyai Soya
「図書幻想」

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色鳥トヲカ
Irodori Toka
「図書幻想」

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野宮有姫(シックスペース)
Nomiya Yuki
「図書幻想」

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田中達也(劇団ペリカン)
Tnaka Tatuya
「図書幻想」

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名前 名前
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楽園王
Rakuenoh

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杉村こずえ
Sugimura kozue
「増殖」

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吉田達也
Yoshida Tatuya
「増殖」

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中野貴啓
Nakano takahiro
「増殖」

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池沢夏之助
Ikezawa Natunosuke
「増殖」

「今、演劇ができることをやろう!!」



こんにちは、主宰の長堀です。5年前、劇団にとって20周年の年、楽園王は震災の影響で公演を取り止めたり、縮小したりして、その後の社会の変化にもすごく影響を受けて、長らく考え続けました。悩みました。関係者の皆さまにはご心配をお掛けしました。演劇には限界がある。そう思いました。当たり前ですね。演劇に限らず、何にだって限界はあります。楽園王は一言で言って、素直にそれを受け入れました。望んでもそれが出来ない時期や場所や集まりが、時として訪れる。今もそう思います。未来、時として僕らには、演劇を捨てる日だって来るかも知れない。可能性の話としてゼロではありません。演劇の代わりに武器を取る日が来るかも知れない。望まなくっても。抵抗を感じても。あるいは巧妙に騙されて。可能性の話としてそれは…… ただ、今現在の話、そんなことを受け入れた上で、さて、そして現在進行形の“今”を考えた上で、やらなきゃいけないことや求められていること、やりたいこと、が、けっこうあるような気がするのです。今、演劇ができることをやろう。それだけを考えるだけでも、今のところ時間が足りないくらい。それが僕の感想です。アンテナに響いてきたこと、勉強して受け取ったこと、あるいは逆に、馬鹿になってギャーって叫んだ果てに見つけたこと、実は色々あるのです。ぶっちゃけ、今、日本は滅びの途上にあります。偉い人たちはナイショにしていますが、間違いありません。実は超貧乏国なの。経済を基準にしたらもうこの国はお終いなんです。政治は失敗している。あるいは、最初から諦めて、弱者を切り捨てている。阻止できる手立てもなく、それをやる人もおらず、むしろそれが加速している世界にて、さてさて演劇をやる舞台としては、…あれれ、最高の環境かも知れません。ここは荒野です。劇的状況とは、こんな荒野にあるのではないか? 実は「これから」なのかも知れませんね。演劇が本当に楽しくなるのは。実は演劇をやる人の数も、劇団の数も、観る人の数も、全部が全部減り続けています。温室じゃないのだから、当然ですね、厳しい環境、力のないものは生きられません。だから、僕らの存在はとても貴重です。文化を支える意味での重要性は、実は年々高まっています。それを楽しめばいいのかも知れない。今はそんな風に思っています。ご心配をお掛けしました。励ましの言葉、ありがとうございます。応援、とても助かっています。今、演劇ができることをやろうって思います。ちょっと頑張ります。どうか是非、楽園王、劇場に遊びに来てください。デジタルな付き合いじゃなくて、実際、具体的に顔を合わせましょう。きっと面白い体験が出来ますよ。だって時代がこんな舞台を用意してくれたんですから……

楽園王 長堀博士

2016年の公演

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芝居楽屋チラシ表_page0001.jpg

*現在、ストップしてます…

求人

楽園王では随時新しい人材を求めています。未知の才能、魅力的な個性、真面目に取り組める姿勢の方、舞台に係る経験が浅い方から経験豊富な俳優まで、さまざまな方との出会いを求めています。砂漠の渇望のように。興味が湧いた方には良きタイミングで、楽園王までご連絡下さい。直接お話しいたしましょう。もしくはワークショップに参加していただくかも知れません。まずはお問合せだけでも。また、俳優だけではなく、演出助手、美術や衣装などのスタッフ、公演のお手伝いも、是非、と思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
≫問い合わせ

★楽園王では、2016年の連続するラインナップを支える、制作助手・演出助手を募集しています。経験は問いません。主に主宰で演出家の長堀の右腕となって、稽古から本番までの多様な仕事を援助していただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

「なりたい自分になりたいと思って行動すれば、

「なりたい自分になりたいと思って行動すれば、なりたい自分になれると思うの。大切なのは行動。あと説明責任はあるわね、周りの人達には。面倒だけどね、だって大人なんだからそれは大切よ。それに他人に話しておくの、けっこういいわよ。ほどよく自分にプレッシャーになって、余計に少し頑張れる。ああでも、自信なんていらないわよ。最初から自信あることやったって人生つまんない、でしょ? 自信がないことが出来るようになるのが人生面白いんじゃないの。自信は後からついてくるわ。結果って形でね。なりたい自分になりたいと思って行動すれば、なりたい自分になれるわ。大切なのは行動。行動行動行動。ねえ、宣言してみたら? 今から自分が何を目指すのか?」

もし違う景色を見たいのなら

違う結果を求めているのに、同じことを繰り返すのをバカだ言ったのはアインシュタインである。なぜ、そんなことを言ったのかと言えば、きっと自分の周りにそんな人間ばかりだったからだと想像する。えっ?違う結果が欲しいって言ってて、なんで同じこと繰り返してるの!? 天才には理解できなかったに違いない。でも、そんな人間、すごく多い。…僕にはよく分かります、凡人ですから(笑) チャレンジをしなければ、失敗はしなくて済むからラクなんです。プライドも傷つかないしね、心も実際もラクちん。人は例え今が不幸でも、新しいことなんて滅多にやらない。怖い。面倒くさい。責任も負わなくっていい。で、言葉でだけ、違う結果を求めている、って言うんだ。嘘うそ。なんにも行動しないくせにね。いつまてもそのまんま。でも、でもでも、ですね、もし違う景色を見たいのだったら、チャレンジをしなくてはいけない。行動に移さなくってはいけない。自分でやらなくってはいけない。そう思いますよ。これは数学ですね。計算を始めなくっちゃ、答えなんて出ないのに。計算する前から、難しい問題だと腕組んで悩んでる。頭で考えているだけ。さて、ペンを持って、紙を広げ、そこに数字を書き込まなくっては。この提案、どうでしょうか? 

板橋ビューネ2016「ナンセンス」

楽園王が毎年参加して、運営にも係っている「板橋ビューネ2016」の募集が始まっています。今回のテーマは「ナンセンス」。>>板橋ビューネ2016

「ナンセンス」はアナーキズムである。

「ナンセンス」はアナーキズムである。知的な遊戯であり、
くだらないお喋りであり、子供向けの駄洒落である。
「ナンセンス」はレジスタンスである。消費社会の中に潜む悪意あるいたずらであり、政治家に読み解くことのできない暗号である。
“貧困”の二文字が目の前にちらついてきた2010年代。経済大国だった日本の生産力は下降線をたどり、為政者たちの手で私達の労働環境は悪化していく一方である。“現実”はそこらじゅうに転がっているというのに、政治家・実業家たちは“美しい日本”をプロパガンダしている。
中世からルネッサンスにかけて、偉大な文学者たちは政治・経済的に窮屈な時代に、暗号を用いて政治家を批判し、市民を味方につけた。ユーモアやアイロニーを用いて、生きづらい世の中で生きる術を市民に与えた。
文化や芸術に触れる余裕のない、こんな時代だからこそ、ユーモアの中の悪意を、“正論”の中でレジスタンスするレトリックが求められているのではないだろうか。

板橋ビューネ実行委員会

利賀演劇人コンクール

利賀のコンクールは毎夏、舞台芸術財団演劇人会議の主催で、富山県の過疎地域である利賀村にある利賀芸術公園にて行われています。≫利賀演劇人コンクール ≫公益財団法人舞台芸術財団演劇人会議 ※演劇人会議では会員を募集しています。特に最近、30歳以下のユース会員の募集を開始しています。

利賀演劇人コンクールと長堀博士

楽園王の長堀博士は、利賀演劇人コンクールの前身の利賀演出家コンクールの第1回から第6回まで連続で出場し、途中3度の選外(つまり失格!)を経ながら第5回では優秀演出家賞を受賞いたしました。第7回と8回では審査員も経験。第10回の過去受賞者を集めた記念開催においても公演をしています。その後、利賀演劇人コンクールと名前を変えてからは、原田武志(劇団ING進行形)演出作品の舞台監督として2回、奥村拓(オクムラ宅)演出作品(主演の牛水里美が最優秀演劇人賞を受賞)の舞台監督として参加をしています。2015年、久しぶりに自ら出場者として公演をし、俳優を含めた劇団の継続性に対し、奨励賞を受賞いたしました。なお、長堀が過去に演出家として上演した作品は、
別役実『マッチ売りの少女』、三島由紀夫『卒塔婆小町』(別の作品の台詞を使用した為選外)、谷崎潤一郎『お国と五平』(言葉使いの過度の変更の為選外)、イプセン『人形の家』(時間オーバーの為選外)、イヨネスコ『授業』(優秀演出家賞受賞)、岡本綺堂『修禅寺物語』、鈴木泉三郎『谷底』。15年の奨励賞作品はチェーホフ『イワーノフ』でした。利賀の創始者で演出家の鈴木忠志以外では、最も利賀芸術公園にて公演をしています。
このコンクール参加を切っ掛けとして、Shizuoka春の芸術祭(SPAC)へ2度の招聘を受け、寺山修司『青ひげ』、エウリピデス『メディア』を上演、また、モスクワへの演出家研修にも参加しています。(僭越ながら若手演出家の方へはコンクールへの参加や演劇人会議への入会をお勧め致します。)

劇場とは。少しだけ演出論として。

自分が、多くの失敗と少ない成功と恵まれた経験と先を走る先駆者から学んだことから、そこから得た幾つかを書いておくと、まず、劇場とは、他者と出会う場である。その言葉に尽きると思う。ここで言う“他者”とは、異なる文化に生きる人々、海や国境や時代を隔てた人たちはもちろんだが、例え同じ国、同じ都市、同じ家や部屋にいる人でさえ、時に簡単には理解出来ない他者であり得る。と考えて良いだろう。なぜこのような話を一番最初にするのかと言えば、いま、他者を描く機能が劇場からどんどん失われて行っているのではないか?と危惧してみたからだ。

利賀でのコンクール参加のみならず、審査員まで経験した身として、そこで出会う“共感”を手掛かりにしか作品や人物と繋がれない演出家や俳優には、正直、口が塞がらない。しばしば彼らは、作品に共感したと話し、人物の内面が「分かった」と発言する。そして、高い確率で審査員は、まさかー、という顔をする。その多さに、またかー、と呆れる場合も多い。古典戯曲の中の人物はそう簡単には理解を許さない、難解な人物が多い。時代差も手伝って、僕らが普通に生きてきた日常の感覚では、この人がどんな人か?分からないことが多い。「こいつら変だぜ」「異常だよ」「馬鹿としか思えない」「キチガイ!」「ヘンタイ!」…分かるわきゃないのだ。それなのに、分かることを前提に、分からなきゃどうしようもないとばかりに、自分たちの日常に手繰り寄せるという手法で必死に共感モドキを見つけて、ユニクロで揃えたみたいな現代服と普段自分達が使っている発話で上演してしまう。誰でも思い付く手垢のついたやり方、日常に置き換えて上演するのを、まるで斬新だって顔して。はっきりしているのは、古典戯曲や文学作品を、共感を手掛かりにしか舞台に上げられないのなら、それはその作品を矮小化している、と言わざるを得ない。ということなのだ。

また、僕は、いまの時代の劇作家にも、問題が多いと思う。いまの作家は、正直、うまい。うまい人が多いと思われる。日常生きている僕らの心のヒダを掘り起こして言葉にする技術には優れ、思わず僕らは共感してしまう。観客はしばしは、そこに“自分”を見つける。このお芝居には“わたし”がよく描かれている。良き理解者に出会った気持ちにさせる。一つの時代に、そんな作家が幾人かいても、もちろんそりゃ良いと思う。だが、大勢いるとなると居心地が悪い。正直、具合が悪い。劇場が自身と出会う場となり、みんなが「分かる分かる」「私も同じ同じ」では、僕らは一体どこで他者と出会ったら良いのだろうか? 他者を描ける作家こそ、常に演劇が求めている人材とは言えないか。(しかしこのことは、誰か個人の資質の問題ではない、社会の問題、もう少し詳しく指摘するなら、経済偏重社会の弊害の一つと言えるのだろうが、話が逸れて長くなるので割愛する)

グローバル化というものが進み、国と国、民族と民族の垣根が形の上では下がった世界、自由にどこへでも旅行出来るはかりか、仕事を見つけ、住むことまで可能な世界では、文化が異なる様々な人と、例え理解には及ばなくても、敬意を払い付き合う機会が増すばかりだろう。価値観の多様化は、別に民族の違いを出すまでもなく、世代間、地域間、異なる体験を壁にして決定的に理解し合えない人々というのも多くなっている。劇場に求められている、他者と出会う、という機能は、現代だからこそ強く求めるべきものの一つではないだろうか?

ひるがえって、いまの時代に古典戯曲を手掛ける意味がここにある。古典をやる面白さと言ってもいい。考えようによっては、共感を手掛かりにしなくていい、という自由度が古典にはある。分からなさを楽しむ道がここにある。

もう一度、世の中の話に少し戻して…、人と人とは分かり合うことが出来る、という考え方は危険な考え方とされる。時間を掛ければいつか分かり合えるとか、努力をすればとか、もっともっと深く相手を知れば、とか、心を開けば、とか、…絶対にどこかで分かり合うことが可能だとしてしまうと、何が危険って、努力の末に分かり合えなかった時に、悪いのが相手になる点だ。自分は最大限努力したのに、それでもダメなら、悪いのは向こうだってなってしまう。だって自分は頑張ったのだもの。考えられる原因を探して行くと… しかし、もし、分かり合うことが出来ないこともある、どんな努力をしてもムリなこともある、と前提を変えるなら、そんな時に、ただただ仕方がないと思える。悪いのがどっちって考え方を避けることが出来る。分かり合えるは危険な考え方なのだ。他者とは、そういった相手のことである。そして他者と出会う機会は少なくない。社会の中で生きるとは、分かり合えない他者と、どう一緒に、同じ場所で、同じ時代を生きていくのか、それに対処し続けて
行くようなものではないだろうか。分かり合うって言葉と、よく比較されて論じられる言葉がある。許し合う、という言葉。他者と、分かり合うことは出来ないけれど、その差を認めたまま、違いを受け止めたまま、分からないまま、でも“許し合う”という選択。大きな例え話を一つ、例えば僕ら人類は、イスラムとそれ以外の信仰を持つ者とは、いつかは許し合うことを選択しなきゃならないはずだ。分かり合おうとするから、分かり合えない末に銃を手にしてしまう。この数行で書いたような簡単なことばかりではないが、根底にあるのは、そんなところだろう。そして、この話を例にすることで分かるのは、分かり合うことと比較して、じゃ許し合うのが簡単だなんて口が割けても言うことが出来ない。ということ。許し合う道もまた困難だ。でも、そこにしか、光がないように思える。光、希望のようなもの。

話が逸れて長くなりました。でも、演劇における、他者と向き合う、ということと、決して無縁ではない話だと思います。例えば戯曲の内容読解、しばしば登場人物の一人は、自分を分かってもらおうと努力して、それが出来ずに怒りに震えます。時に誰かが、許す、許せない、許されたい、の中で苦しみに悶えます。あるいは、稽古場にて、俳優同士がそんな渦中に迷い込みます。ほんと困りますね(笑) 劇場とは他者と出会う場である、そんな一文について、こんな話を書いてみました。上記した“光”とは、劇場にあるのかも知れないと思っています。

長堀

演じること。

仕事としての演劇とは、自分がどう思うかよりも、誰か他人からどう見えるか、どう思われるか、を演出して創作する仕事である。ということに異論を唱える人は少ないと思う。ごくたまに、俳優の気持ちや心の中に在るものが大事だと言う演劇人もいないこともないが、断言しておくが、間違いである。心の中も気持ちも、“表現”しないことには何にも見えないのだから、“表現”“表現力”と呼ばれる“技術”が大事なのであり、気持ちの問題などは関係ない。演劇の成功とは、概ね、お芝居を上演する側が「こう思ってもらいたい」というものを創作して「そう思ってもらう」ことに尽きる、のであり、演劇をやる側の、観客の反応を勘定に入れない満足感など、何の意味もない。創作する側の期待していなかった以上の効果、評価にたどり着くことも稀にあるが、それも、まずは「そう思ってもらいたい」を丁寧に作り上げることの、その先で起き得ることである。もちろんその際の、気持ちを込めて丁寧な仕事をする、ということを否定しているのではない。だが、気持ちは気持ちだけでは見えない、その事実を忘れてはいけないと思う。もしも、気持ちが込もっているだけで、何かが変わるのだ、と言うのなら、…なぜ、君の強い気持ちの片思いは成就しないのだろう?  …なぜ、あの人の強い気持ちはストーカー扱いなのだろうか? 大切なのは、気持ちの強さなどではない、それをどう“表現”するのか、何度も言うが、そんな具体的なもの、“表現力”の問題なのである。そして、それなればこそ、技術として学習が可能であり、後天的に身につけることが出来る、と言っておきたい。芝居とは、学習は可能なのだ。

さて、話し始めたのは、演劇人の視点のお話ではなく、それは前置きで、普通に生きる日常の話である。上記、まるで舞台演劇において、そんなことが重要だと話しているが、本当は、すべての人に重要な話なのではないか? と私は思っている。ぶっちゃけて話すが、、

人生とは “他人からどう見えるか” を満たすことが何より重要で、それを演出して演じて役割を担う、ことが、一番大切なことではないだろうか。

と思っている。自分がどう思うか、例えば嬉しいとか楽しいとか幸福だとか、は、それは他人からどう見えるか、を満たした上で、それに寄り添わせて何とかするか、あるいは、その陰で、余った時間や労力で何とかするか、が、適当であり、まさか他人からの視線よりも大事になんかするものではない、と、僕は見切って考えている。舞台は世界の鏡と言われるが、まさに演劇で必要な姿勢とは、生きる上でも同じと考えてた。

有名なミッキーマウスの成長の話がある。ミッキーには昔、白目がなかった。古いアニメを見ると、今より素朴で簡単な絵が見られる。そっちのが好きって人も多い。ただ、ある時、どうしても必要になり、白目があるデザインに変更された。なぜか? 白目が出来たことでミッキーマウスは、より豊かな表情を作ることが可能になった。それは、ミッキーマウスがより人間に近くなったことを意味する。

野生の世界で生きる動物にとって、表情を読まれることは致命的である。体調が悪いことが読まれれば、捕食者の餌食になる確率は上がるので、基本的には野生の動物には白目がない。読まれ難い素朴は表情を持っている。一方、人間はもう完全に逆である。社会というものを作り上げ、そこにしか生きられない人間とは、表情を読んでもらって体調の悪いのを察してもらう、同情してもらうことが、生存確率を上げることにつながる。だから、僕らは白目を獲得し、表情を豊かに発展させた。表情を見れば色々分かる、それが生きる上でとても大事。特に、生まれてからかなりの長い期間、一人では食べることも排泄を処理することも何も出来ない、野生の世界では考えられない驚くほど脆弱な状態で過ごす人間の赤ちゃんにとって、あの、多くを魅了する愛嬌、可愛さは、生きる上で重要な“演劇”であり、命を掛けた戦いですらある、と言える。あれは、芝居、である。生きる為には、どうしても必要な。そしてその芝居は、その必要性は、実は赤ちゃん時代ばかりではない、それは一生、人生につきまとっているのではないか、そう僕には見えている。誰か他人から良く思ってもらうということ。自分が子供なら親や保護者から。学校に入れば友達や先生から。社会に出ればすべての他人から。動物学的に見た、社会というものを作る人間という生き物にとって、生存競争に勝つということは、「他人からどう良く見てもらうか」、それが何より一番大事なのではないか、本当にそう思う。生存競争とは、適者生存のことを言うのだから。それが、一部の考えの足りない人の言葉によって、他人からどう見えるか、ではない、自分がどう思うかが大事、なんて語られると、もうほんと残念でならない。人を不幸にする悪魔のささやきだよ、それ。そう思う。

白目を獲得して、表情のあることが生存確率を上げる生き物である以上、…話が最初の段につながるが…、人間には“表現”“表現力”が大事なのではないだろうか? 芝居でいいのだ。すべて演劇でいい。他人からどう思われるかを演出する。自分がどう思うか、自分の幸福とかは、まずは仕方がない、一旦横に置くか、無理矢理にでもそれに寄り添わせるか、それしか方法がない。それが、“人生の成功”とは言えないだろうか? 一つの幸福の形だと。…それが、演劇の世界でずっとずっと仕事をしてきた人間から見える、この“世界”なのである。

僕は、別に、人が他人からどう見られるかを勘定に入れない幸せを追及するのを、否定しているわけではないですよ。それは在ったっていい。ただ、それを大声で堂々と話すのはどうか?と思っている。ちょっと恥ずかしくありませんか? それを受け入れて許してもらおうだなんて、虫が良すぎませんか? だって関係ないんでしょ、周囲のみんなには。はい、僕にだって、そりゃ、ある。あります。他人視線は完全無視の自分にとっての幸福。それを大事にだってしています。だが、陰で、です。他人からどう見られるかがまずあり、それを頑張り、その裏で、そんなプライベートはまた別の話として考えている。それへだって頑張ったり心を込めたりする、けど、それは、まったく別の次元の話なのである。

人の生とは演劇である、と考えている。芝居である以上、演出は大事な仕事で、表現、表現力を強く強く求めたい。さらに話せば、実に人間とは、誰か他人から褒められるってことに、この上ない喜びを感じるように仕組まれた身体を持ってしまっている。褒められると嬉しい、ってことに人は抗えない。個人ではなく、社会こそが基礎の土台とする生き物として、それは重要な資質に違いない。褒められたい。それを頑張る。それを満たす。だったら、演劇だろうが何だろうが、他人からどう見えるかを満たす人生は幸福に違いない。と、考えてみた。

長堀

「医療費無料定額診療」について(情報提供)

正直な話、演劇人の仲間には健康保険に入れていない人がいたりして、こんな情報も掲載しておきたいと思います。ご活用ください。