「ある種の“仕方なさ”が必要なんだと思う。
仕方がないから、どうしようもないから、って気持ちが
背中を押して、何とか前へ進んできている。
そんなことの延長線上に“今”がある。




COMMENT ずっと書いてきたことの残骸・・・


楽園王からの手紙(2016)




湖の向こう側とか、走り去る車のカーラジオからとか、遠くから聞こえてきた音楽が心の奥の奥の深いところに響いて、懐かしいような切ないような、不思議な気持ちになることがある。そんな時に行きたくなる場所があるとしたら、むかしあなたが愛したあの劇場。あの日、今まで観たことのない素敵なお芝居を観たね。あの劇場へ。

はじめての方にははじめまして。
お久しぶりの方には、どうもお久しぶりです。お元気でしたか?
いつもいつもの方には、いつも足を運んで下さり本当にありがとうございます。楽園王、とうとう25年目になりました。なんだかびっくりですね。楽園王の長堀です。

楽園王をスタートしたのは1991年でした。幾つかの劇団に脚本を書いていたことを前提に、自らの手で上演するカンパニーを持ちたいという気持ちから、当時、田端にあったディプラッツという劇場へ予約に行きました。楽園王の最初の5公演は全部、この一番最初のディプラッツで上演しています。(その後、ディプラッツは田端-神楽坂-麻布、そして現在日暮里にあるd-倉庫へと精神が受け継がれています。) 正直な話、2年程度で一旦区切りをつけるつもりで始めたカンパニーだったのですが、様々な事情が重なり、仲間の支えもあり、運にも恵まれ、なんだか25年続いています。僕としては実はとても不思議な気持ちなんです。そして、仲間やお客様や運に対して、深い感謝の気持ちを持っています。責任のような気持ちも持っています。そして、せっかくここまで来たのだから、100年くらいを目指しても良いのではないか、近年は、そんなことも考え始めました。演劇作品の上演は、短い期間にキャスト、スタッフが集まり、公演が終わったら、はい解散、ってことの繰り返しなのですが、長く継続するぞ、って柱を立てることで、他のカンパニーでは実現できていない、長期的な視野に立った“何か”も出来そうだと計画を練ったりもしています。そんな計画を、公演共々、ぜひ楽しみに待っていて下さい。どうぞよろしくお願いいたします。

でもまずは今年、今年は、そんな25年目の企画として、それに相応しいような力の入った作品を発表して行けたら、と思っています。次々とこのホームページで、情報を上げていきたいと思います。ぜひ時々チェックしてみて下さい。

……5年前、2011年、楽園王の20周年の「祝祭」の年には、3月11日に大きな地震がありました。あの時の“揺れ”は、単に物理的なものだけではありませんでしたね。それを契機として、日本の社会は世界中を巻き込んで大きく転換をしたと考えています。それ以前とそれ以降では、もうぜんぜん違う世界になってしまいました。そう感じています。残念ながら、今のところ、良い方向へと変化したとは思えません。とても心配なことが沢山出てきました。今まで隠れていたのにその時に顔を出した化け物。その時に新しく生まれて成長を続ける化け物。この文明は今、大きな脅威に晒されています。それが楽園王としての見立て。そして楽園王も、単に20周年の企画の幾つかを取り止めただけではなく、社会の影響を受けて、その後も数年をかけて悩み続けました。それまでは自分や自分たちの内側のエネルギーだけで創作出来ていたものが、今は社会との関係を考えないわけには行かなくなりました。悩んで、悩んで、悩んで、今でも実は悩み続けています。まだ、何かスッキリした答えが出ていませんし、もしかしたら、答えなんて出ない問いを抱えたのかも知れません。そうも思ったりしています。それでも、ですね、それでも“答え”を提出してみよう。実はそれが楽園王のスタンスです。例え間違いでも。時に稚拙でも。のちのち謝ることになっても。多くの知識人が“問い”の発見だけで感心したり、満足したりして、それで終わりになる傾向が多い中、そういうのは研究者とか学者さんにお任せしますよ、“答え”にはこだわって作品作りをしていきたいと思っています。ちょっと抽象的な話が続いていますが、えー、要するにこれ、戦ったり、喧嘩売ったり、暴れたりして行こう、きっとそんな話なんです。

昔、あの人が言った言葉が思い出されます。あなたは馬鹿なんだから、頭で考えてもダメ、ぜんぜんダメ、行動して行動して失敗して血流さなとね、自分の身にならない。でしょ? 損だし、倍時間かかるし、頭こんがらがるけど、仕方がない、諦めて、行動しなさい! 

話が少しズレましたね。だから、20周年の年の“節目”は、祝祭ではない、それまでの節目とは違う意味を持ったターニングポイントになりました。あれから5年、あっという間、5年が経ちました、今年の25周年はどんなだろうか? 時に頭がいっぱいになります。自ら発信する“何か”、計画、外からやってくる“何か”、ハプニング? ・・・期待半分、困難がやってくる可能性も念頭に・・・、大地に足を踏みしめ、受け止める気持ちでこの場所に立っています。どうか、どこかに興味を引くようなところがありましたら、ぜひ劇場に足を運んでみて下さい。長く続いているカンパニーの、経験に裏打ちされた作品をいつでも上演しています。新しい出会いを求めています。けっこう面白のをやっていますよ。長く続いているだけのことはあります(笑) どうぞよろしくお願いいたします。観劇という形で、僕たちに力を下さい。

台風が近づいていた。

空はうねる雲におおわれ/風は、風景をとばした。
どんな絵画もこの造形には敵わないだろう/胸躍り、
見上げた上空に未知の美術館を想像した。
なぜ、だろうか?
このワクワクは説明ができない/前の、
台風では恐ろしい思いもし/亡くなった、知り合いまでいるというのに、

風に叩かれながら自分を湧き立たせる何かに思いを巡らす/そうだ。

きっとそうだ。
これは自分の人生なんだ。
この圧倒的な力に身を任せること/時に、戦いに挑むこと。
負けること/逃げること/勝ったと、思い込むこと。
殴られたような強風、
あの雲の造形も色彩もうねりも/これは、
まさに自分の人生そのものなんだ/台風が、
近づいていた/台風が近づいていた、
自分にとっての、自分という名前の台風が近づいていた。
今! 目の前!!

タイムマシンに乗って

ある日、随分昔だが、タイムマシンに乗って未来の自分がやってきて、こう言った。…可能だけれど難しいことと、不可能なこととは、多くの人たちには“同じ顔”をしている。だから、もし君が、可能だけれど難しいことにチャレンジしようとすると、多くの人たちは「そんなバカことに挑戦するなんて」と笑うだろう。親切な友達はそれを辞めるようアドバイスをくれるに違いない。みんな足を引っ張る。だが、それが実現可能だと信じるなら、そんな障害を乗り越えてやらなくってはならない。君だけの問題じゃない。それをこそ、人類の進歩なのだから。ある日誰かが初めてそれをやらない限り、それは歴史上この世界に存在しない。一度存在させてしまえば、数年後には常識にすら成るそれが、その瞬間がなければSF小説の中だけの虚構の物語に過ぎない。…などと大げさに考えなくってもいい(笑) 他人に笑われても信じてやるなら、それには意味がある。たぶん、他人が笑うくらいには難しいのだろう。だが、ただ難しいってだけで自分には実現が可能だと信じるなら、突き進め。突き進め、未来から来た俺が言っているのだ、信じて頑張れっ……、そんなことがあってから25年の年月が流れた。今、自分の目の前にはタイムマシンがあって、過去の自分に適切なアドバイスをする準備が整っている。さあ、かつての自分へレッツゴー! 何を語ろうか。今の自分が、あの日あの時と同じことを語れるのか? よし原稿を書いておこう。・・・えー、無茶はするんじゃない。新しいことをすれば必ず失敗するから、よくよく考えて行動すること。他人に笑われるのは思いの外ツラいぞ。特に、好きだった○○に去られた時は絶望した。昔、僕の芝居が好きだと言っていた人がもう今は期待していないと気づく時の孤独には打ちのめされた。孤独だけが友達だ。人生は思い通りにならない。無難に生きるんだ。決して目立たず、周りを見て、空気を読んで、それが人の幸せと言うものだ。…ここまで書いて原稿を破いて捨てる。つまらない。芸がない。もう少し気の利いたことが言えないものか? よし、タイムマシンに乗るのには一年間待とう。その方がいい。この一年頑張って、その答えを胸に、過去の自分に会いに行こう。その時には・・・

最近、ユナボマーについての文章を読んだ。ユナボマーは異名。かつてアメリカを震撼させた爆弾魔。彼は、世界の中の難しい問題はすべて解かれ、世界にはもう簡単な問題か、不可能な問題しか残ってないと言った。子供でも出来る仕事か、誰にも出来ない仕事しか。それじゃ誰も意欲を持って生きることは出来ないと、この文明が一度破壊され、再び意欲を持って生きることが出来る世界を再構築したいと望んで爆弾を手に取った。ユナボマーのやったことは犯罪だが、彼の主張は多くの共感を得た。で、考える。世界には、もう何も残ってはいないのだろうか? 本当に? ただ、曇り眼鏡を掛けているだけでは? 視野が狭いだけでは? 難しいけど可能なこと。難しいけど可能なこと。意欲を持って取り組める仕事・・・

誰もが未来に何が待っているか分からないと嘘をつく。でも本当はこのまんま行けば、どんな結末が待っているか、だいたい察しが付いている。でも、それが気に入らなくって、認めたくなくって、分からない振りをしているだけだ。このまんまじゃいけないことだけは分かっているのに、何もしない行動力の欠片もない自分。あるいはあなた。馬鹿なだけ。本当は毎日のようにタイムマシンに乗った自分が現れては、ヤバイヤバイと告げているのに。なのに気付かない振り。改めて冷静に見ようではないか。難しいけど可能なことと、不可能なことをキチンと仕分ける。血噴き出すくらい頭を使って。そして難しいだけの実現可能なことに、残りのコイン全部注ぎ込もう。人類の進歩の為に。人類の進歩の為に。もう一度、あの人が期待するようなガツーンって作品を発表するのだ。・・・


長堀です。こんな文章が携帯に書いてるのを見つけました。いつ書いたのだろう? 以下、最近に書いたのから、過去に書いたのまで、こんな感じの文章が幾つか続きます。もしお時間が許すようでしたら、ぜひ。

お手紙。

こんにちは。あるいはこんばんは? 長堀です。お久しぶり、ですかね。今日あなたにお便りしたのは、一つ忠告と言おうか、話しておきたいことがあって、ペンを取りました。最近あなたはどうしていますか? 詳しく分かっているわけではないので半分勘で話しますが…、そろそろ私も丁度良い具合にダメ人間になって、って思ってご満悦で、時々クスクス笑ったりしているようにお見受けいたしますが、ねえ、あのですね、正直に言いますが、まだまだ甘いって思う訳ですよ、こちらとしては。忘れてませんか? ダメってもっと上があります。で、本当の本物のダメ人間ってものがどんなだか、目にもの見せてやる、って時々考えたりしています。いい加減、自分が優等生だって認めたら?とか思います。えー、だから、久しぶりに会いませんか? 目にもの見せますよ、本当、はい(笑)

相変わらず文章長くなって申し訳ないけど、今から下に続くのは、僕の手帳に書いてあるもの。「雨ニモ負ケズ」ってタイトルしてあるけど、そんな内容じゃないの。逆(笑) 死んだ後に見つけてくれたらいいな、って気持ちで書きました。色々バレているあなたにだけ、お知らせをしておきます。

あらためて自戒の為に書いておくが、私は本物の詐欺師として力をつける為に頑張るべきである。もしも、詐欺師として最高水準の実力を身に付け、徹底的に世間を、身近な人達や世界のすべてに対して騙し続ければ、いつか誰かが振り返り、歴史的には詐欺師ではなく、本物、として記録されるのではないか。あの人は芸術家であった。そう言われるのではないか。それを私は狙っていると認めたいと思う。詐欺師とはバレた時に詐欺師になるのであって、隠蔽が完璧ならばこちら側に被害はない。私はそれを強い意志を持って目論んで行動しなければならない。でも、まさか、自分が最初から本物であるというような、傲りも昂りも持ってはいけない。ロクでもない人間であることを忘れるべからず。つまらない人間であるのだから、油断せずに、丁寧に丁寧にやり抜くのだ。変な話だが、努力は大事。努力なくして、このことの完遂はないと思え。私という、力のない小さくてロクでもない駄目な人間が世界に対峙しようというのだ、これくらいやらなけば太刀打ちは出来ない。世界には、恵まれた実力も恵まれた環境も持った強い人達が山ほどいる。私はそんな奴らと戦うことも肩を並べることも、潔く諦めよう。ない袖は振れない。無理なものは無理。しかし、諦めるは諦める、が、さて、自分の底にある、闇の中に隠れているどす黒い欲深さも忘れてはならない。ロクでもない癖に、欲は満たしたいのだ。くそ、くそ、くそっ言いながら地団駄を踏んでいるもう一人が心の中にいる。チキショウ、チキショウと泣いている少年が闇に隠れている。それも自分だ。だから、立ち上がらなくてはならない。諦めるにしだって、そこには選択肢もあるさ。卑怯だろうが何だろうが、うまいやり方を考え出さなくては。バレたら最悪だが、上手く上手くやり抜くのだ。もう一度言う、バレなきゃ詐欺師でも何でもない。ピカピカの本物だ。騙して騙して騙せばいい。すべては虚構だ。劇作家として、私は世界を私の書いた戯曲の中に閉じ込めてしまえばいい。演じるのも自分。下手でも何でも芝居し抜いてやる。夢は達成する。野心は満たす。欲望も満たす。それが嘘でも演技でも何だっていい。手に入りゃどうでもいい。そんなことを手帳に書いておこうと思う。告白と言うか、宮沢賢治君を真似て。生前には少しも本が売れなかった童話作家の彼を真似て。生きている間に手帳の「雨ニモ」が見つかってバレたら最悪だが、まあ、死後に発見される地雷みたいに、手帳には記しておきたい。私は詐欺師である。本物ではなく偽物である。皆さま、本当、ごめんなさい。すみません。すべては詐欺です。騙すつもりはありました。申し訳ありませんでした。

今あなたはお元気ですか? 実はね、少し心配しています。人づてに事件の話を聞きました。僕の耳に入るまでには誇張されてたかも。でも、心配しています。長い大きな橋の上で何時間も話したことを覚えています。外灯。川音。けっこう寒かったね。最初明るかった月も沈み、最後には闇に包まれた。面白かった。笑ったね。星が綺麗だった。良い返事を待っています。会えなくてもいいや。ただ、良いニュースが聞こえてくることを待っています。あるいは、気が向いたら公演を見に来てください。きっと良い芝居をやりますよ。もう25周年なの。世間には年月の重みにカッコつけるけど、ね、笑っちゃうね。まさかぁ、だよね。あなたにはバレてる。スマートにではなく、ボロボロに頑張ったり、怠けて反省したりしながら必死に舞台作っています。才能ではなく努力で、センスではなく勉強して勉強してって。休みが取れたら是非観に来てほしい。きっと気に入ると思う。

長堀

一般的であるということには、

一般的である以上の意味はなく、それが正しいとは限らない。むしろ、一般的であるが故に再考する機会を得られず、中身のない形だけの張りぼてになっている可能性がある。演劇にはそれを問い直す機能がある。演劇とは、私たちが一般的に“表面的だ”と思いがちな事が、実はとても重要で、内面とか核とか真理だと考えていたものが、実は“存在しない”と気付かせてくれる芸術の一つである。時に日常の価値観は逆転する。

長堀

自分自身の考えや意見を

キチンと持ち、それを言える人間が素晴らしいとする風潮があるが、僕はそれを素晴らしいとは思わない。他人の考えや意見に耳を傾けて、どっちだろう? 正しいだろうか? でも他人って面白い! 違う二つの意見があるって面白い! って興味や驚きを持って多様な意見の間で、常に考え続けるのがより優れた態度だと僕は思う。時に誰かがそれを優柔不断だと責め立て、自分でも焦ったり慌てたりもするが、自己主張ばかりで他人の話に耳を傾けることが出来ないことに比べたら、どれだけそれが良いことか。そう考える。例え信じている自分にとっての正義や信仰があっても、違う意見に対して、それを説き伏せる為ではなく、興味を持って(敬意を持って)受け止めることが出来なければ、それはとても残念なことだと僕には見える。大切なのは、勝ち負けがあるディスカッションって議論ではなく、勝ち負けを持たないダイアローグという対話だと考える。…って意見ですら、場合によっては変えることが可能な賢さ(笑) それは、他者を演じる演劇という世界では、基本的な姿勢と言えると思う。
長堀

追加で。でもそれが簡単なことだとは言わないし、思わない。時に困難な場合もある。対話の場に出るということは、自分が信じている“明らかに”正しい考えを、他の人の“明らかに”間違った意見に耳を塞いで、ただ相手に伝える為ではなく、自分が場合によっては考えを変える覚悟を持ってその場に参加する、ということだ。“明らかに”は捨てなくっちゃいけないのですよ。人によっては、うわーっじゃないですか? 自分の矛盾する他人の価値観を認めるということ。分からなくっても、認める。許容する。でも、それをやらないでは、多様な人々との合意形成は得られない。そして、多様性だけが強い生命線である以上、多くの人が耳を傾ける社会であってほしいと願う。祈る。

「個人というもの」が

「社会の一員である」ってことの前に重要である、なんて思っているのなら、大きな勘違いなんです。優先されるべきは、常に「社会」の側であって、「個人」はその後ろにくる。個人の価値観、個人の思い、感情や快/不快などの感覚、それらすべてにおいて優先順位は上位じゃない。個人とはあくまで社会の一員に成るための、歯車に成るための存在であり、それ以外はそれほど重要ではないと知っておいて損はないと思う。そしてそれは、決して残念なお知らせじゃないと言わねばならない。ちなみに、ここで言う社会とは、広義の、とにかく二人以上で作られる「集団」「共同体」すべてのこと。例えば家族や友人関係、ボーイフレンド、ガールフレンドなんかとの関係も含んでいいと思う。もちろん国や国際社会も含まれるが。さて、僕は「個人が重要」「個人は尊重されるべき」なんて考えていると、何よりその人にとって、とても不幸であると考える。なぜなら、実際に重要視されることも、尊重されることも“ない”からだ。最初から“ない”ものを有ると思い込んで求めることほど、虚しく悲しいことはない。それが決定的に否定された日に受け取る絶望は、計り知れないだろう。だから、これは事実として最初から“ない”と強く言わねばならない。そして、もしも僕らが重要視され、尊重されるとするなら、常に、そんな「社会」「人間関係」の中での「役」と寄り添わせるしか方法がない、と。「愛も何もない考えだな」って思われるかも知れないが、愛だって契約社会である外来の考えだから契約じゃないか、と僕なら思う。無償の愛って言葉があるが、神学的な愛も社会的な取り引きの上に成り立っている。さて、上記した「役」とは、演劇やドラマで言うところの、演じる「役」のこと。「役割」「立場」と言い換えていいけど、意味は同じだ。このことは、自分が社会の側からそう求められる、あるいは、社会に認められる/認められない、という話だけではない。自分自身を見つめ直して、内面の、心の問題としてもこのルールは当てはまる。人類という生き物は、身体的な仕組みとして、「他人から褒められると嬉しい」、逆に「受け入れられないと酷く落胆する」ように出来てしまっていると考えて良いようだ。そして、このことは、身体の仕組みの中でもかなり上位に位置していて、なかなか抗うことが困難だ。褒められると“もうどうしようもなく”嬉しくて仕方がない。つまり、誰か他人から認められるという経験は、個人の中で重要なポジションを占めていることになる。また、もう一つ書くなら、誰からも認められていない、と思い込む時には、それが心に与えるショックはかなりの強さのようだ。事実、それが自死や犯罪に走る原因になる場合が少なくない。それらを考えても、私たちは、他人との関係から切り離して考えることが難しい存在と言えるのではないか。とにかく、好むと好まざるとに関わらず、認めてしまって良いと思うのだ、「わたしは他人から認められたくて認められたくて仕方がない」と。私たちに重要なのは、「役」を演じる自分の方ではなく、演じる「役」の方が重要なのだと言える。一見、表面的だと勘違いしそうなところに、生きる上で最も重要な要素が隠れている。そう思うんだ。

あなたが、親子関係の中で良い子を演じ、学校では良い生徒を演じたあなたが、だから社会に出た後に、キレて、、演じてきた衣を脱ぎ捨て、生の、あらゆる役を削ぎ落とした自分自身を見つけようとしたことには、それは分からないことはないんだ。手を抜いたことが少なかった分、あなたは怒りにも似た強い気持ちで「あんなのは私じゃない」「私は本当の私を見つける」と叫んで暴れた。でも、僕はそんな姿をただただ冷静に見ていた。すこし距離を置いて。そして、少し時間が経ち、幾つかの挫折を経験してから、その後にこんな内容の話をしようと思っていた。それが、タイミングを計り損ねて、油断して、あなたが心の病と診断される迄に追い詰められてしまったこと、悔やんでいる。あなたが経験した通り、結果もう分かったと思うけど、あらゆる「役」を削ぎ落とし、あらゆる立場を捨てた後に残る、崇高で自分の「核」になるようなものなど、人間には初めから存在しない。人間とは、生まれてから獲得したものだけで占められていて、「役」という言葉で説明するなら、「役」だけの存在だ。社会や他人との関係性の中にだけ、不安定に表れる蜃気楼のようなボヤーってものが自分なのだ。だから、削ぎ落として削ぎ落として自分の中へ深く深く入って行くと、その手応えのなさ、中身のなさに参ってしまうに違いない。時に、そのようなことをやった人間だけが、発狂か自殺か犯罪に走る。最初からないものを有ると思い込んで行き過ぎると、そのような結果になる。こんな考えは苦い薬だろうけど、どうか少しずつていい、飲み込んで行って欲しい。昔あなたが演じた良い子は、それがあなた自身だった。優等生は演じていたと思っているけど、確かにそれは間違いないけど、ムリしてじゃなかった。とても演じやすい役だったし、合っていた、何より、自分が他人とコミットするのに役に立った。恥じるようなことでも、嫌悪するようなものでもなく、誇りに思って差し支えないものだった。今あらためて振り返り、そんな風には思えないだろうか? 少なくとも、僕は好きだった。一人の人として。あなたの立ち振舞いを。美しいと思っていた。僕は、あなたが演じていた表面的なところしか見ないで、好きだったなんて言っているわけじゃないと思うよ。こいつセンスあるな、やるな、って思う時の視線は、確かにあなた自身を見ていたつもり。本当のあなたを知って好きになっていたと思ってる。

過去を肯定しても良いと思う。あなたはあなただった。間違えていなかった。そしてこれからも、身近な人間関係や社会の中に、「役」としての自分を演じて行っていいと思う。時には芝居が下手で失敗する時もあるかも知れないけど、そんなことも含め、いとおしく自分を見つめて良いと思う。仕事とかね、色々頑張ってから合わないなら辞めりゃいい。ムリムリって! でしょ? 所詮、「役」でしかない。へへ、「役」って考え方、けっこう便利でしょ?(笑) 時には自ら降板したっていいんだ、自分の人生なんだもん。軌道修正けっこうけっこう。だけど、他人との関係、仲間とか、恋人が出来た時には恋人とか、家族とか、その関係には積極的にコミットして欲しいと思ってる。そこにあなたが表れるんだ。素敵な役を演じて欲しい。あなた自身の為に。自分自身のこれからの為に。ね?

もしも君が孤独なら、

二つの内どちらかをあげる、
友に頼る弱さか、
孤独に耐える強さ、
君がとちらを選ぶか僕は知っている、
君はひねくれている、
夜が降りてくる。


長堀

自分が、多くの失敗と

少ない成功と恵まれた経験と先を走る先駆者から学んだことから、そこから得た幾つかを書いておくと、まず、劇場とは、他者と出会う場である。その言葉に尽きると思う。ここで言う“他者”とは、異なる文化に生きる人々、海や国境や時代を隔てた人たちはもちろんだが、例え同じ国、同じ都市、同じ家や部屋にいる人でさえ、時に簡単には理解出来ない他者であり得る。と考えて良いだろう。なぜこのような話を一番最初にするのかと言えば、いま、他者を描く機能が劇場からどんどん失われて行っているのではないか?と危惧してみたからだ。

利賀でのコンクール参加のみならず、審査員まで経験した身として、そこで出会う“共感”を手掛かりにしか作品や人物と繋がれない演出家や俳優には、正直、口が塞がらない。しばしば彼らは、作品に共感したと話し、人物の内面が「分かった」と発言する。そして、高い確率で審査員は、まさかー、という顔をする。その多さに、またかー、と呆れる場合も多い。古典戯曲の中の人物はそう簡単には理解を許さない、難解な人物が多い。時代差も手伝って、僕らが普通に生きてきた日常の感覚では、この人がどんな人か?分からないことが多い。「こいつら変だぜ」「異常だよ」「馬鹿としか思えない」「キチガイ!」「ヘンタイ!」…分かるわきゃないのだ。それなのに、分かることを前提に、分からなきゃどうしようもないとばかりに、自分たちの日常に手繰り寄せるという手法で必死に共感モドキを見つけて、ユニクロで揃えたみたいな現代服と普段自分達が使っている発話で上演してしまう。誰でも思い付く手垢のついたやり方、日常に置き換えて上演するのを、まるで斬新だって顔し
て。はっきりしているのは、古典戯曲や文学作品を、共感を手掛かりにしか舞台に上げられないのなら、それはその作品を矮小化している、と言わざるを得ない。

また、僕は、いまの時代の劇作家にも、問題が多いと思う。いまの作家は、正直、うまい。うまい人が多いと思われる。日常生きている僕らの心のヒダを掘り起こして言葉にする技術には優れ、思わず僕らは共感してしまう。観客はしばしは、そこに“自分”を見つける。このお芝居には“わたし”がよく描かれている。良き理解者に出会った気持ちにさせる。一つの時代に、そんな作家が幾人かいても、もちろんそりゃ良いと思う。だが、大勢いるとなると居心地が悪い。正直、具合が悪い。劇場が自身と出会う場となり、みんなが「分かる分かる」「私も同じ同じ」では、僕らは一体どこで他者と出会ったら良いのだろうか? 他者を描ける作家こそ、常に演劇が求めている人材とは言えないか。(しかしこのことは、誰か個人の資質の問題ではない、社会の問題、もう少し詳しく指摘するなら、経済偏重社会の弊害の一つと言えるのだろうが、話が逸れて長くなるので割愛する)

グローバル化というものが進み、国と国、民族と民族の垣根が形の上では下がった世界、自由にどこへでも旅行出来るはかりか、仕事を見つけ、住むことまで可能な世界では、文化が異なる様々な人と、例え理解には及ばなくても、敬意を払い付き合う機会が増すばかりだろう。価値観の多様化は、別に民族の違いを出すまでもなく、世代間、地域間、異なる体験を壁にして決定的に理解し合えない人々というのも多くなっている。劇場に求められている、他者と出会う、という機能は、現代だからこそ強く求めるべきものの一つではないだろうか?

ひるがえって、いまの時代に古典戯曲を手掛ける意味がここにある。古典をやる面白さと言ってもいい。考えようによっては、共感を手掛かりにしなくていい、という自由度が古典にはある。分からなさを楽しむ道がここにある。

もう一度、世の中の話に少し戻して…、人と人とは分かり合うことが出来る、という考え方は危険な考え方とされる。時間を掛ければいつか分かり合えるとか、努力をすればとか、もっともっと深く相手を知れば、とか、心を開けば、とか、…絶対にどこかで分かり合うことが可能だとしてしまうと、何が危険って、努力の末に分かり合えなかった時に、悪いのが相手になる点だ。自分は最大限努力したのに、それでもダメなら、悪いのは向こうだってなってしまう。だって自分は頑張ったのだもの。考えられる原因を探して行くと… しかし、もし、分かり合うことが出来ないこともある、どんな努力をしてもムリなこともある、と前提を変えるなら、そんな時に、ただただ仕方がないと思える。悪いのがどっちって考え方を避けることが出来る。分かり合えるは危険な考え方なのだ。他者とは、そういった相手のことである。そして他者と出会う機会は少なくない。社会の中で生きるとは、分かり合えない他者と、どう一緒に、同じ場所で、同じ時代を生きていくのか、それに対処し続けて行くようなものではないだろうか。分かり合うって言葉と、よく比較されて論じられる言葉がある。許し合う、という言葉。他者と、分かり合うことは出来ないけれど、その差を認めたまま、違いを受け止めたまま、分からないまま、でも“許し合う”という選択。大きな例え話を一つ、例えば僕ら人類は、イスラムとそれ以外の信仰を持つ者とは、いつかは許し合うことを選択しなきゃならないはずだ。分かり合おうとするから、分かり合えない末に銃を手にしてしまう。この数行で書いたような簡単なことばかりではないが、根底にあるのは、そんなところだろう。そして、この話を例にすることで分かるのは、分かり合うことと比較して、じゃ許し合うのが簡単だなんて口が割けても言うことが出来ない。ということ。許し合う道もまた困難だ。でも、そこにしか、光がないように思える。光、希望のようなもの。

話が逸れて長くなりました。でも、演劇における、他者と向き合う、ということと、決して無縁ではない話だと思います。例えば戯曲の内容読解、しばしば登場人物の一人は、自分を分かってもらおうと努力して、それが出来ずに怒りに震えます。時に誰かが、許す、許せない、許されたい、の中で苦しみに悶えます。あるいは、稽古場にて、俳優同士がそんな渦中に迷い込みます。ほんと困りますね(笑) 劇場とは他者と出会う場である、そんな一文について、こんな話を書いてみました。上記した“光”とは、劇場にあるのかも知れないと思っています。

長堀

個展に行ってきた。

増田セバスチャンの秘密の個展の一般公開に駆け付けた。その場で考えたことメモ:自分の体験を通してアイデアを起草する。特に身体感覚などの体験を。それが増田君にとっては難聴→それを補うように視覚が発達したかも→“色”に強いこだわりを持つに到る、と言うのなら、僕は逆で、他人の目を見て話すことが出来ない幼少期から現在まで続く資質に、色弱という明確な色覚異常→目から入ってくる情報よりも耳から入ってくる情報こそ大事であり、“世界”である。というようなこと、が、もちろん、見る/見られる、の関係性の舞台演劇とは無縁ではない。というようなこと。→それは、時々振り返り、発想の基礎の土台に置いても良い、のではないか?

もう一つ。社会との関係の中で、それは、やはり一種の抗議活動である、というようなこと。既存の価値観への疑問の投げ掛け、と言っても良いもの。kawaiiが、単に可愛い、ではなく、大人社会に押しつけられる世界への抗議、の意味を持つ、みたいな。

もう一つ。長く続くカンパニーを持ち、そのカンパニーを長く続かせることをも目的の一つに掲げて行くクリエイターとして、年単位、十年単位の長期的な視野を持つ活動も始めるべきではないか? という自らへの提案。増田君の最初の店が、終わりのない展覧会というコンセプトであったり、世界中で行われた20年単位のkawaiiアートタイムカプセルのように。→限りなくシアトリカル(演劇的)な、しかし演劇ではない何か。ということは、最近に文章化した。

もう一つ。“実験的”である必要性。

もう一つ。ある種の“過剰さ”の必要性。

長堀

怒る人が

怒ることで獲得できるのは、正しさでも正義でも何でもなくて、その人が怒っているという事実に過ぎない。それが閉ざされた集団なら、怒れば権威が上である、というような力関係を構築することが出来るかも知れないが、それは、怒る人と怒られる人の両者がバカである場合に限られる。バカとは、本当は存在しない幻の力関係に簡単に騙される。怒る人は力関係での上のポジションにご満悦、気持ちいいかも知れない。怒られた側は、焦って右往左往して萎縮して…、アホらし(笑) そんなもの所詮、砂の城だから脆く、少しでも“風が吹けば”簡単に崩れ去る。外から見ると、その幻の力関係なんかは、お遊戯に見えるだろう。“風が吹けば”…風は外から、外部から吹いてくる。集団の閉塞感の中で、きっとそこでは風は吹かない。

長堀

孤独とは

昔、ある時にやらされた一問一答に、「あなたにとって孤独とは?」って質問があった。その時にはうまく思い付かず適当に答えた気がするが、あとから考えるに、これだと思うものを見つけた。


昔、楽園王や僕の作る芝居が好きだと言っていたある人が、今はもう期待してないと感じられた時。


考えるに、そんな時ほどの深い孤独を僕は知らない。最初から期待されてないなら未だしも、途中であの人は、ああ、ここはダメだと離れたのだ。ハンマーで叩かれたような無力感。落ちる孤独の闇は深い。実はある時期に僕は、その人が好きだったのだ。


それはもちろん、モチベーションにもなっている。1つには演劇を続けるモチベーション。あるいは、大げさかも知れないが、生きるモチベーションとしても効力を発揮している。その人は自分がそんな基準にされちまっているとは気付きもしていないだろうが、その人が置いた距離も手助けとなり、楽園王、1991年に公演をスタートしてから、とうとう25周年を迎える。


昨年、小さな再会があった。その人が久しぶりに公演を観に来たのだ。短い挨拶だけして別れたが、…その公演は僕にとっての抜き打ちテストになった。

長堀

本当に頭が良い、とは。

これから自分が達成することを、今、現時点で自分が知っている、ということ。何かの計画があり、それに実行力が伴うことを自分で分かっている、ということ。もちろん、過去やったこと、過去に使ってしまった何かの精算や後始末、以外にだ。


それは、シナリオがあるがごとく。自分が成すこととは、よく訓練され稽古された役者の仕事であるがごとく。そんな人生つまらないだろうか? シナリオなんかなく、行き当たりばったりで、辿り着く結果を自分も知らない方が楽しいだろうか? それは、よく訓練され稽古された役者に、その仕事についてインタビューしてみれば分かる。いや、インタビューした答えを想像してみれば分かる。このくらいの想像、難しくないだろう?


つまらないわけがない。と僕は考えた。たまの旅行ならいざ知らず、生きるということ、仕事すること、人生の計画において、よく訓練され稽古された役者のごとく自信を持って立ち振舞うことが、つまらないわけがない。そしてそれは、舞台に限らず、きっと誰かからの拍手をもらうに違いない。成功とはそういうものだろ? そんな風に僕は考えた。そしてそれを踏まえた上で、それでもその人生が驚きに満ち、時に感動に涙し、時に悔しさに打ち震える日だってあるに違いないと、僕は確信している。そんな道を行こう。


僕には演劇で達成すべき幾つかがあります。かなり大きな目標としては、現代演劇である自分や自分の仲間との共同作業で生み出された“表現”が、例えば能や狂言や歌舞伎のように長く歴史に残り、継承されるべきものとして、常に上演されるようになること。大変なことだけど、一芸術家としては大事な大切な目標。


近くの、数年単位での目標としては、まずは《楽園王の再出発》を作品の質の上でも、規模や動員などでも、大きく成功させる、ということ。非常にベーシックにストレートに、作品と出演者が評価される、ということを達成させる。だから、まずは今、目の前のそれに知恵を搾り、力を割く。思いを込める。そしてここから、良い作品や俳優の仕事を、水面に広がる力強い投石の波紋のように、社会に発信して行きたいと目論んでいるんだ。


力を貸してほしい。

長堀

仕事としての演劇とは、

自分がどう思うかよりも、誰か他人からどう見えるか、どう思われるか、を演出して創作する仕事である。ということに異論を唱える人は少ないと思う。ごくたまに、俳優の気持ちや心の中に在るものが大事だと言う演劇人もいないこともないが、断言しておくが、間違いである。心の中も気持ちも、“表現”しないことには何にも見えないのだから、“表現”“表現力”と呼ばれる“技術”が大事なのであり、気持ちの問題などは関係ない。演劇の成功とは、概ね、お芝居を上演する側が「こう思ってもらいたい」というものを創作して「そう思ってもらう」ことに尽きる、のであり、演劇をやる側の、観客の反応を勘定に入れない満足感など、何の意味もない。創作する側の期待していなかった以上の効果、評価にたどり着くことも稀にあるが、それも、まずは「そう思ってもらいたい」を丁寧に作り上げることの、その先で起き得ることである。もちろんその際の、気持ちを込めて丁寧な仕事をする、ということを否定しているのではない。だが、気持ちは気持ちだけでは見えない、その事実を忘れてはいけないと思う。もしも、気持ちが込もっているだけで、何かが変わるのだ、と言うのなら、…なぜ、君の強い気持ちの片思いは成就しないのだろう?  …なぜ、あの人の強い気持ちはストーカー扱いなのだろうか? 大切なのは、気持ちの強さなどではない、それをどう“表現”するのか、何度も言うが、そんな具体的なもの、“表現力”の問題なのである。そして、それなればこそ、技術として学習が可能であり、後天的に身につけることが出来る、と言っておきたい。芝居とは、学習は可能なのだ。

さて、話し始めたのは、演劇人の視点のお話ではなく、それは前置きで、普通に生きる日常の話である。上記、まるで舞台演劇において、そんなことが重要だと話しているが、本当は、すべての人に重要な話なのではないか? と私は思っている。ぶっちゃけて話すが、、

人生とは “他人からどう見えるか” を満たすことが何より重要で、それを演出して演じて役割を担う、ことが、一番大切なことではないだろうか。

と思っている。自分がどう思うか、例えば嬉しいとか楽しいとか幸福だとか、は、それは他人からどう見えるか、を満たした上で、それに寄り添わせて何とかするか、あるいは、その陰で、余った時間や労力で何とかするか、が、適当であり、まさか他人からの視線よりも大事になんかするものではない、と、僕は見切って考えている。舞台は世界の鏡と言われるが、まさに演劇で必要な姿勢とは、生きる上でも同じと考えてた。

有名なミッキーマウスの成長の話がある。ミッキーには昔、白目がなかった。古いアニメを見ると、今より素朴で簡単な絵が見られる。そっちのが好きって人も多い。ただ、ある時、どうしても必要になり、白目があるデザインに変更された。なぜか? 白目が出来たことでミッキーマウスは、より豊かな表情を作ることが可能になった。それは、ミッキーマウスがより人間に近くなったことを意味する。

野生の世界で生きる動物にとって、表情を読まれることは致命的である。体調が悪いことが読まれれば、捕食者の餌食になる確率は上がるので、基本的には野生の動物には白目がない。読まれ難い素朴は表情を持っている。一方、人間はもう完全に逆である。社会というものを作り上げ、そこにしか生きられない人間とは、表情を読んでもらって体調の悪いのを察してもらう、同情してもらうことが、生存確率を上げることにつながる。だから、僕らは白目を獲得し、表情を豊かに発展させた。表情を見れば色々分かる、それが生きる上でとても大事。特に、生まれてからかなりの長い期間、一人では食べることも排泄を処理することも何も出来ない、野生の世界では考えられない驚くほど脆弱な状態で過ごす人間の赤ちゃんにとって、あの、多くを魅了する愛嬌、可愛さは、生きる上で重要な“演劇”であり、命を掛けた戦いですらある、と言える。あれは、芝居、である。生きる為には、どうしても必要な。そしてその芝居は、その必要性は、実は赤ちゃん時代ばかりではない、それは一生、人生につきまとっているのではないか、そう僕には見えている。誰か他人から良く思ってもらうということ。自分が子供なら親や保護者から。学校に入れば友達や先生から。社会に出ればすべての他人から。動物学的に見た、社会というものを作る人間という生き物にとって、生存競争に勝つということは、「他人からどう良く見てもらうか」、それが何より一番大事なのではないか、本当にそう思う。生存競争とは、適者生存のことを言うのだから。それが、一部の考えの足りない人の言葉によって、他人からどう見えるか、ではない、自分がどう思うかが大事、なんて語られると、もうほんと残念でならない。人を不幸にする悪魔のささやきだよ、それ。そう思う。

白目を獲得して、表情のあることが生存確率を上げる生き物である以上、…話が最初の段につながるが…、人間には“表現”“表現力”が大事なのではないだろうか? 芝居でいいのだ。すべて演劇でいい。他人からどう思われるかを演出する。自分がどう思うか、自分の幸福とかは、まずは仕方がない、一旦横に置くか、無理矢理にでもそれに寄り添わせるか、それしか方法がない。それが、“人生の成功”とは言えないだろうか? 一つの幸福の形だと。…それが、演劇の世界でずっとずっと仕事をしてきた人間から見える、この“世界”なのである。

僕は、別に、人が他人からどう見られるかを勘定に入れない幸せを追及するのを、否定しているわけではないですよ。それは在ったっていい。ただ、それを大声で堂々と話すのはどうか?と思っている。ちょっと恥ずかしくありませんか? それを受け入れて許してもらおうだなんて、虫が良すぎませんか? だって関係ないんでしょ、周囲のみんなには。はい、僕にだって、そりゃ、ある。あります。他人視線は完全無視の自分にとっての幸福。それを大事にだってしています。だが、陰で、です。他人からどう見られるかがまずあり、それを頑張り、その裏で、そんなプライベートはまた別の話として考えている。それへだって頑張ったり心を込めたりする、けど、それは、まったく別の次元の話なのである。

人の生とは演劇である、と考えている。芝居である以上、演出は大事な仕事で、表現、表現力を強く強く求めたい。さらに話せば、実に人間とは、誰か他人から褒められるってことに、この上ない喜びを感じるように仕組まれた身体を持ってしまっている。褒められると嬉しい、ってことに人は抗えない。個人ではなく、社会こそが基礎の土台とする生き物として、それは重要な資質に違いない。褒められたい。それを頑張る。それを満たす。だったら、演劇だろうが何だろうが、他人からどう見えるかを満たす人生は幸福に違いない。と、考えてみた。

長堀

時々、もしかしたら頻繁に、

どこか誰にも気づかれない場所でひっそりと死んで、発見されるのも遅く、あるいは発見もされず、誰にとっても特別ではない“死”が起きる。そして、いつか自分がそうなっても良いかと問うてみる。想像する。真面目に考えてみる。死んだ後の見ることも知ることも出来ない頃の話なのだ、気に病むのも馬鹿らしいと笑うことも出来よう。そうなったらなったで仕方がないとも思わなくもない。だが、でも、だ。でも、そのような死では“何かが足りない”。その時に考える“足りてない”ものが自分にとって大切なものに違いない。

さて今度はあなたの話をしよう。あなたは今、あるいは昔、あるいは時々、自分が少し犠牲みたいになって、それでそれが上手く行くのであるなら、それで良いと考えているね。犠牲とは言っても、何となく全体が上手く運ぶことには、自分自身もそれに幸せを感じなくもないから、それほど大袈裟なことでもないんだ。また、意地悪な見方をすれば、…そしてそれは真実でもあるのだが…、お前はお前で犠牲になってる感じが自分で気持ち良くもなってるしね。自分は間違えてはいないと思っている。ベストではなくてもベターだと。さて、でも、別の視点からも考えてみよう。もし今自分がここに在るのが、誰かの犠牲の上に立っていたとしたら? それだと正直、居心地が悪い。誰も自分の為には犠牲にはなって欲しくない。それは、その人への心配というより、自分が自分で嫌なんだ。嫌っ。それじゃ自分の人生が台無しだ。駄目なら駄目で、自分でそれを受け止めたいのに、責任取りたいのに、そんな平穏なんて何だか騙されている気分。ごめんね。勝手に想像した。さて、じゃ、総
合して考えてみよう。お前が自分が勝手に犠牲になってさ、勝手に気持ち良くなってる目の前のその相手はさ、感謝なんかしてると思うかい? お前が相手の為にと思ってやった(と思っている)前戯や愛撫はお前自身を気持ち良くさせてるだけで、本当は、本人の視点では人生台無しにされているみたいな、そういう行為なんじゃないのかい? お前のはセックスじゃなくてオナニーだよ。一人よがりなんだよ。だから、もうそろそろ、自分と世界との関係を変えた方がいいと思うのだけど、どう思いますか? お前の世界に対する態度が、悪くないはずだと思ってきたその態度が、お前と世界との関係を悪化させてきたんじゃないのかい?

拭い去れない、自分はどこか世界から拒絶されているような感覚。原因は世界の側にあるわけじゃない。もう分かってるでしょ? 自分が、誰にも気づかれない場所でひっそりと死んで、発見されるのも遅く、あるいは発見もされず、誰にとっても特別ではない“死”を迎えそうな未来、それは自分が招いた結果だということは忘れてはならない。

長堀

何をやるにも、申し訳ない、

というような気持ちが少しはあり、それが完全には払拭出来ていない。それは、根源的な自分の性質の問題であり、もしかしたら解消することは出来ないものなのかも知れないが、開き直ることが出来たら、どれだけスッキリするだろう、と思う。堂々としている人が羨ましい。堂々としている人は、別に開き直っている訳ではなく、そもそも堂々としているのだろう、と思うが、あのように開き直って生きられれば、色々有意義だと思う。何か、外側から、つまり開き直るだけの証拠集めの為に頑張っているようなところもある。で、自信みたいなものはついた。特に作品については何だか自信がある。だが、そのことで上記した問題が解決はしていない、ということに、もう気づき始めている。結局、どうしても、どこか心の中には、申し訳ない感が漂う。周囲が気付くかどうか分からないが、態度にもそれは出ている。自分では分かる。態度に出ていることが、より一層自分を悩ませる。ものすごく深刻にではないが、少し、ピリッとする。まあ我慢して付き合えないレベルではないが、困ってないと言うことも出来ない。うむ、なんだか、申し訳ない話だ。何か証拠みたいなのが貯まって、それが足りたら、解決出来る問題なのだろうか? もっと自信がつけば、何かが変わるのか? もう少しやって行くしかない。とにかく生きて行こう。

長堀

お金について。

お金は稼ぐのには向かないものだと思っている。そして、お金は増やすことに向いているとも。持たざる者は稼ぐしか方法がなく、故にお金持ちになる可能性は大変に低い。すでに持っている者、別の言葉で言うなら、既得権益を持つ者は、増やす資金がある為、お金持ちの地位は安泰だ。そんなわけで基本、貧乏人はお金持ちにはならないし、お金持ちはお金持ちであり続けるのが、この社会の安定したシステム。努力の力でひっくり返した例もあるにはあるが、そしてそれは目立つから目に入るし耳に聞こえてくるが、そしてそれは夢を見させてもくれるのだが…、大変に困難な道のりだ。そのことを確率計算した人は知らないが、貧乏人が貧乏であり続ける確率も、お金持ちがお金持ちであり続ける確率も、つまり、逆転も逆襲も起きない確率とは、大変に高いに違いないと考えている。そして、数字は裏切らない。確率で決まったものは、その確率の数字に支配される。統計的には、例外なんてものはない。これは、残念だとかの感想を挟まず、まずは事実として受け入れるべきだと思う。つまり…、

つまり、お金という価値観に振り回されるのは時間の無駄だと。

お金とは僕ら下界の者にとっては特に、オバケみたいなもので、不確かで実体がない。絵に描いた餅であり、手を伸ばしても手には入らない。それを目的として追い掛けるには意味がない。下手に手を伸ばした先はたいていは詐欺で、騙されて失うのがオチだ。セミナーと名のつく場で何を言われても、サクラがたくさん混じっている会場がどんなに熱気に満ちていても、最終的には持たざる者こそ多くを失う。失う。投資はお金持ちが大きくお金を動かしてお金を増やすシステムで、少額が増えるなんて話は夢だし、ま、嘘だ。さて、その上で、そのような絶望的とも思えることをキチンと出発点にして、じゃ何をすればいいか、何を大切すればいいか、それを考えるべきだと思う。確かにお金は大切だが絶対的な価値があるわけじゃない。

それに振り回されるのは本当、時間とか人生とか勿体ないし、

お金にこだわるにしても、この出発点を肝に銘じておけば傷つくことも少ない。稼ぐのには向いていない性質を持つお金ってヤツを、稼ぐしか手に入れる方法を持たないのはやりきれないが、事実をキチンと見ることこそ、本当の知だと私は考える。ここが出発点。

長堀

千豆(ちまめ)の話。

千豆(ちまめ)の話。千豆は20年以上前、つまり楽園王を旗揚げする前に知り合いだった女の子だ。僕もまだ若く20代の前半だった。彼女は僕が台本を書くために通っていた喫茶店のウェイトレスだった。純喫茶「はな」。古くて寂れた店だけど、サイダーちびちびやって長居しても居心地が悪くならない、僕にとっては最適な喫茶店だった。昔はそんな店がたくさんあったけど、今ではあの辺りもスカイツリーに伴う再開発で様変わりしてしまった。僕の実家「三松旅館」も、あの頃は吾妻橋のあの辺りにあったのだ。ある時僕が、当時は手書きだった原稿を落としてばら撒いてしまったことがあった。その時千豆がそれを拾うのを手伝ってくれて、そして「字をいっぱい書く人なんですね」と言った。その時に僕がなんて返したのか覚えてないが、彼女は「私は絵をいっぱい描く人なんです」って言ったんだった。名前を聞いたのはその後しばらくして、彼女のアトリエに僕が訪ねていくことになった日のこと。名前を言った後に「今あなたが想像した字じゃないからね」ってすぐさま言うのは、その時の僕に対してだけじゃない、その後何度も聞くことになる千豆の自己紹介の枕詞みたいな台詞だ。「千の豆。いい名前でしょ」ってくっ付けるのもいつも同じ。千豆の絵は正直僕には分からなかった。例えば青一色で塗られたキャンバスなど、僕にはうまく解釈が難しいような思われた。ただ、なんか本気だってことだけは理解できた。例えばそれは絵の大きさだったり、塗りたくる激しさで伝わってきて、そういう本気さには僕もすごく影響を受けたと思う。僕たちはすぐに仲良くなった。でも残念なことに、知り合ってから千豆が姿を消す半年の間に、僕らは恋愛関係にはならなかった。幾つか理由があるのだが、千豆が遠くにフィアンセがいるの、って言ったのが一番大きい。詳しくは話してもらえなかったが、まあ、そう言うのだから仕方がない。でも一度仲良くなると、千豆はしょっちゅう、時間とか関係なく僕を呼び出して僕を色々な場所に連れまわした。夜中であることも多かった。携帯電話もメールもない時代。ちょっと迷惑な時もあったが、基本僕は付き合った。感情の起伏が激しく、すごく喋り続ける日もあれば、ほとんど口も利かない暗い表情の時もあった。それらの理由も、実は今考えても分からない。あれだけ一緒にいた濃い一時を過ごして、考えてみれば僕は千豆のことがまったく分からない。ただ千豆の笑顔は好きだった。彼女の笑顔には、他人を安心させる効果があったように思う。僕は彼女が好きだった。彼女は突然姿を消した。ある日アトリエに行ってみたら誰もおらず、もうすべてを引き払った後だった。部屋には書置き一つなく、完全に何も残されていなかった。その時の喪失感は忘れられない。もう二度と千豆には会えないのか、と思うと涙が出てきて鳥肌が立って、熱まで出て寝込んだりもした。立ち直るのには時間がかかった。その後何年も経って、彼女の存在をモデルにお話を書いたことがある。「勿忘草(わすれなぐさ)」という名前の妖怪の話。「勿忘草」は人の記憶の中にしか生きられない、人に忘れられたら消えてしまう儚い妖怪。だから彼女はほんの短い間誰かと濃い時間を過ごし、しかし、しばらくすると姿を消す。なぜならその時の喪失感こそ、絶対に人から忘れられない、記憶にしか生きられない彼女の生命線だったから。…そんな物語を書いて、僕は少し千豆から卒業できたと思う。実際の彼女は、そりゃ妖怪などではなく普通の人間だったと思う。姿を消したのだって、きっと普通の理由があったに違いない。例えば借金とか親の引っ越しとか人間的な。でも、ま、そんなことはもうどうでもいい。先日、千豆から連絡があった。「日本に帰るから」と書いてあったので、つまり日本にはいなかったのだろう(笑) 僕のアドレスはネットで簡単に見つかる。検索すればすぐ。劇団を二十年やってるってことは、つまりそういうことなんだ。音信不通の二十年ぶりの友人からも簡単に連絡が来るってこと。それ以上でもそれ以下でもない。ふーんって感じ。それは僕にとってはとても重要なことだ。千豆にまた会える。とても重要なこと。僕と同じ分だけ歳を重ねた彼女に。あるいは、もし千豆が「勿忘草」ならもしかしたら… などと想像しつつ、約束の飛行場まで、もうあと一か月を切ったところ。千豆の話。

長堀

違う結果を求めているのに

同じことを繰り返すのは愚かなことである。…と言ったのはアインシュタインだった。…などと言えば信憑性が増すだろうか? 言われるまでもない、違う結果を求めているから、あれやこれや違う手段を講じてきている。その一個一個を指して「あいつは失敗した」と思われても、事実そうだったとしても、本当はそんなことにはあまり意味はない。確かなのは、「まだ」違う結果を求めている。求めて続けている。それが変わってないということ。それを僕自身の欲の深さで説明することも出来よう。ほんとうは手に入れている「何か」に満足せずに、「まだ」「もっと」と、足掻いて身悶えている。強欲。あるいは人の業(ごう)。それをそう解釈することも出来よう。もう「違う結果」なんて言葉で説明できる「別の何か」なんて求めず、ほら、目の前の「今に満足しろ」と。もし、そんなことを言い出す人間が目の前に現れたら、僕はそんな人を信用しない。心のパンチで殴ってやる。その人が言っていることが正しいかどうかなんてどうでもいい、たぶん僕はすべての「今に満足しろ」に疑いを持ってしまっているのだ。すでに「誰でもが特別なオンリーワン」だから、「今に満足しろ」なんて言われても… 僕が(誰かが)そこで満足をすると、別の誰かが得するような仕組みが、この世の中に敷かれているんじゃないかって、そう疑ってしまう。SFの話じゃなくって現実のこととして。その考えは、概ね当たってしまうことが多いことも経験的な事実として知っているつもり。ま、そんなわけで、僕はアインシュタインの意見に全面的に賛成だ。これからも実践していこうと思う。その一回一回が失敗に映っても。その先の根本的な大きな「変化」を目指して。…楽園王の20年の歩みは、おおむねそんな感じだと思う。現時点の話をすれば「まだ途中」って感じ。劇団名比較でいえば、長く続いている方だろうか? それはそれでおめでたいようにも思う。震災で日本の社会の経済や価値観が変わっても、それが芸術家に与えた打撃は決して小さくないけれど、こうして公演をすることで20年のバトンタッチは維持された。でも、それは要するに「足掻いた」時の長さだ。右に転がったり、左に逸れたりしてきたから、連続した「何か」があったわけではない気がする。振り返り、今、そう思う。
(中略)・・・震災そのものでなく、その後の国や大きな会社や、日本の社会を牽引する立場の人たちの対応は酷いものでしたね。その酷さの中で、特に演劇人である僕にとって目に余るのが、「言葉の使い方」に関することです。彼らのあまりにも多くの失言と前言撤回と嘘のパフォーマンスのお蔭で、今の世の中、言葉に対する信用ってものが、息も絶え絶え、とても酷い状態になってしまいました。もう誰も誰かの言葉が信用できない。それは本当は、それを使う人の問題なんだけど、なんだか言葉そのものが駄目になってしまった。そう感じます。特にテレビへの不信は凄いですね? 日本の歴史上、これほど言葉が信用を失ったことはないのではないでしょうか? さて、今回、それを回復する仕事が「演劇には(芸術には)可能ではないか?」、そう命題を掲げてみました。長く残る古典戯曲の力強い言葉によって、それに僕らの現代的な現代劇としての演出を加え、「言葉の復権」に助力できるのではないか? そう考えて、・・・(以下略)

長堀